(8)景行天皇と邪馬台国の滅亡 〜高良大社を祀る人々〜

高良大社拝殿 景行天皇

筑紫の景行天皇

日本書紀によると、第12代景行天皇が筑紫を巡幸したのは18年7月のこと。長浜浩明さんの計算だと、西暦299年頃の出来事になる。

このとき景行天皇が滞在したのは、御木(大牟田市)、八女県(筑後市・八女市)、的邑(うきは市)で、「豊後国風土記」の情報を加えれば、生葉(うきは市)を出た天皇は、「日田の郡」にも立ち寄っているようだ

高良大社大鳥居
(「高良大社」2022年春参詣)

この筑紫巡幸では気になる点が二つあって、まず景行天皇のルートに、玄界灘沿岸の「奴国」や「伊都国」が含まれないこと。この二国は3世紀の北部九州の中心地だと思われるが、ヤマトを拒絶する勢力でもいたんだろうか。

もう一点が、景行天皇が「筑紫後国(筑後)」に滞在したのは案外長く、纒向に還幸された19年9月から、行きの大和ー周防に要した1か月を差し引くと、日本書紀の時間で約一年、天皇は筑後にいたことになること。

「肥前国風土記」によると、筑後で景行天皇が拠点としたのが「御井の郡の高羅(こうら)の行宮」で、現在そこには筑後国一の宮「高良大社」が立つという。

(高良大社からの眺望)

その頃の「奴国」

3世紀の日本列島で、最大最強の工業地帯を擁した「奴国」では、3世紀中頃にはその本拠地を、春日市の「須玖遺跡群」から博多湾に近い「比恵・那珂遺跡」に移して、相変わらずの繁栄を謳歌していたようだ。

比恵・那珂遺跡の範囲は、御笠川と那珂川に挟まれた南北2km、東西0.7kmの140haほどで、景行天皇の時代に最大化した「纒向遺跡」の半分ほどだ。

那珂八幡古墳の墳丘復元図
(出典『二万余戸の実像・奴国』伊都国歴史博物館/2021年)

この比恵・那珂遺跡のまん中へんに、3世紀後半に築かれた王墓が「那珂八幡古墳」(86m)だ。福岡平野では最古の前方後円墳で、同時代の「纒向型」墳丘の方と円の比率が1:2に対し、こちらは2:3と、微妙に独自な設計でつくられているそうだ。

北部九州ではその後も、宇美町の「光正寺古墳」(54m)、筑紫野市の「原口古墳」(80m)、糸島市の「御道具山古墳」(65m)、唐津市の「九里双水古墳」(108m)なんてのが方:円が2:3の規格でつくられた古墳だそうで、ヤマトの葬送文化を受け入れつつも、北部九州は北部九州で独自のグループだという仲間意識でまとまっていたようだ。

とはいえ、那珂八幡古墳の「第二主体」からは、ヤマトのシンボルである「三角縁神獣鏡」が出土していて、埋葬の年代は布留0式(270−290年頃)だという。景行天皇から直接に下賜された可能性もあるかも知れない。

那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡
(出典『二万余戸の実像・奴国』伊都国歴史博物館/2021年)

奴国のエリアで、景行天皇が巡幸した頃から隆盛したのが「西新町遺跡」。比恵・那珂遺跡の北西7kmの沿岸地域で、奴国の対外交渉と交易を担った集落だという。

地元の「福岡市博物館」や「九州歴史資料館」のWebページによると、西新町遺跡に山陰や近畿など、日本各地の土器が運び込まれるようになったのは「4世紀頃」のことだという。

『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』

また、3世紀後半に日本最大の鉄器工場だったのが「博多遺跡」で、古代の鉄に詳しい村上恭通さんによれば「博多遺跡の生産量というか、処理了は膨大なもので、一つの工房とか、工房群という程度のものではありません」とのこと。

その当時は、博多遺跡で朝鮮から仕入れた鉄素材を精製して、各地に送るようなシステムがすでに確立していたそうで、纒向遺跡からも「筑紫型のフイゴの羽口」が出土しているようだ。

3世紀の終わり頃、ようやく北部九州と纒向遺跡が一つの文化を共有して、ヒトとモノが行き来する流れができ上がったのだろう(なので、奴国と繋がりのなかった3世紀前半の纒向遺跡は、邪馬台国の候補とはいえないと思う)

『奴国』

西新町遺跡にはセットになる墓域「藤崎遺跡」があって(併せて60ha)、そこには北部九州では珍しい前方後墳二基を含む、全18基の墳墓が造営されたそうだ。

そのうち二基からは、やはり三角縁神獣鏡が出土しているようで、確かに景行天皇は「奴国」には足を踏み入れてはいないものの、三角縁神獣鏡の受入状況からは、敵対、拒絶、みたいな強い抵抗があったとは考えにくい気がする。

宗像大社
(「宗像大社」2022年春参詣)

肥前国風土記の「珂是古」

ぼく個人は、邪馬台国は筑紫平野の「どこか」にあったと思っているんだが、3世紀末に景行天皇が巡幸したとき、北部九州にそれらしき勢力は見当たらず、天皇は筑紫平野も熊本平野も好き勝手に移動している。

邪馬台国はどこに行ってしまったんだろうか。

日本書紀は「日本の歴史」ではなく、「皇室の歴史」を綴った史書なので、残念ながら天皇にカンケーないことは書かれていない。仮に九州で歴史的な政変が起こったとしても、皇室に関わらないなら何一つ言及がないだろう。

なので、皇室に関わらない事件を文献に探そうとすれば、おのずと「行間」を読むような作業が必要になる。

「宗像大社」本殿
(「宗像大社」本殿)

「肥前国風土記」に不思議なエピソードがのせられている。

姫社(ひめこそ)という郷に「荒ぶる神」がいて、通行人の半分を殺したという。その神に祟りの理由を聞いてみると「筑前の国、宗像郷の珂是古(かぜこ)に我が社を祀らせよ」とお告げがあった。

宗像から珂是古がやって来て、幡を投げて神の居場所を探ったところ、それが「姫社の社」であることが明らかになった。つづいて珂是古に夢に神が現れて、それが「織物の女神」だと分かった。

女神の正体を知った珂是古は、社を建てて神を祀ったという。

「小郡市の「媛社神社」鳥居
(「小郡市の「媛社神社」2022年春参詣)

さて、そんなかんじで神が人間に祭祀を要求するパターンはいくつかあって、例えば三輪山のオオモノヌシのように、自分を祀るべき子孫が別の場所に移ったために、祭祀が途絶えている場合。

あるいは、「伊勢国風土記」逸文の「安佐賀(あざか)山」の荒ぶる神のように、自分を祀る部族が侵略を受けて、祭祀が途絶えている場合。

珂是古はヒメコソの神について何も知らなかったんだから、後者の伊勢・アザカ神のケースが当てはまると思われる。ならば宗像の人々は、歴史上の何処かで筑後を侵略し、ヒメコソ神の祭祀を途絶えさせたことがあるんだろうか。

伊勢の「阿射加神社」
(松阪市の「阿射加神社」2021年秋参詣)

北部九州の豪族たち

日本書紀によると、宗像三女神を祀る氏族には「筑紫の水沼(みぬま)君」なる人たちもいる(神代第6段第3の一書)。この「水沼」を日本書紀全文から探してみると、他に2回、景行紀でヒットした。

一つは、景行天皇が「襲武媛」に産ませた「国乳別皇子」は「水沼別の始祖」だという記述。もう一つが、八女県を行幸する天皇に従軍して、その地の神「八女津媛」の説明をした「水沼県主・猿大海」の記述。

まとめてみれば、水沼氏は「宗像氏」に近い氏族で、景行天皇の落胤の後裔で、景行天皇の親征では道案内をした・・・。一部、時系列に矛盾があるが、まぁそういった人たちだったようだ。

「媛社神社」拝殿
(「媛社神社」拝殿)

んで、これも時系列的には変テコな話かもしれないが、先代旧事本紀の「天孫本紀」によると、「物部阿遅古連公」は「水間君等の先祖」だという。

民俗学者の谷川健一さんによると、この物部アジコは風土記の珂是古(かぜこ)と同一人物だという説があるそうで、かなり錯綜した状況になるが、水沼(水間)氏を通じて、物部氏と宗像氏の関係が浮き上がってくるという。

ただ、物部阿遅古は、欽明天皇に仕えた「物部尾輿」の孫に当たるので、飛鳥時代の人物のようだ。

直入市の「劔神社」
(直入市の「劔神社」2022年春参詣)

物部氏といえば、谷川さんはその祖地を、福岡県東部の「遠賀川」の流域だとお考えだ。そこには物部氏が武器を祀った神社が数多くあって、継体天皇が「磐井の乱」の総大将に「物部麁鹿火」を選んだのも、九州島の入口に割拠する物部一族の協力を取り付けることを期待したから———と書かれている。
(以上『白鳥伝説』1986年)

そういえば景行天皇の九州巡幸にも、物部氏の「夏花」が従軍して武功を上げている。

安曇氏の氏神「志賀海神社」
(安曇氏の氏神「志賀海神社」2022年春参詣)

もう一人、景行天皇の親征に名前が見える豪族が、博多湾の「志賀島」を拠点にする海洋民の「安曇氏」。

肥前国風土記には、志式嶋(平戸)まで出張った天皇に命じられて、「阿曇連・百足(ももたり)」が威力偵察を行ったことが記されている。

この安曇氏については、志賀島から「漢委奴国王」の金印が出土していることから、魏志倭人伝の「奴国」の王家の末裔だという説がある。その「奴国」の領域に、九州でも最古級の前方後円墳が造営されたことからみて、海人族の安曇氏は、かなり早い段階から畿内ヤマトと通じていたと思われる。

高良大社の社号標
(高良大社の社号標)

高良大社を祀る人々

さて、そんなこんなで景行天皇のまわりに集まってきた九州人たち。この人たちが一同に会する場所が、景行天皇が「高羅の行宮」を営んだ場所に立つという「高良大社」だ。まず安曇氏と物部氏。

『地名辞書』は高良神社の祭神に阿曇連の祖の綿津見神をあてている。高良神社の祠官の中の小祝に安曇氏の名前が見える。それに対して物部氏は代々高良神社の大祝という重要な祠官をつとめてきた。

(『白鳥伝説・上』谷川健一/1986年)

水沼(水間)氏と高良大社の関係は以下。引用中で「第一の伝説」というのは、肥前国風土記で景行天皇が高羅の行宮で「国見」をした件。

第一の伝説は山の伝説で、国見の物語である。

国見をする神・天皇は国見の物語を伝承する村人のためには祖神である、といわれる。高良山周辺で先祖を皇室に結びつけ、景行天皇の子孫と称したのは、水沼君(水間君とも)であった。水沼君は、弥生時代、筑後の旧三潴郡を中心に強大な勢力をふるったとみれる古代豪族である。

(中略)

第一の伝説は高良山がこの水沼君の祖神景行天皇の示現の山である、という伝承である。

現在の高良大社に、景行天皇を祭神とした社伝はないが、景行天皇は大足彦、現在の本社祭神は高良玉垂命である。「足」「垂」は、大帯姫(神功皇后)の「帯」などと同義語で、「日足らし育てる」の意である。相通ずるので、第一の伝説中の景行天皇と高良玉垂命とは、 一つ神格の神と考えることができる

(『日本の神々 神社と聖地 1 九州』1985年)
『日本の神々 神社と聖地 第一巻 九州』谷川健一編(白水社)

ところで延喜式神名帳だと、高良大社の祭神は一座なのに、現在の本殿には「御客座」があって、そこでは「豊比咩大神」なる女神が祀られている。

この「豊比咩神社」も、延喜式神名帳では高良大社と並ぶ「名神大社」で、両社はもともと、ごく近い場所で祀られていたそうだ。

「御客座」と聞いて思い当たるのが、柳田國男や折口信夫が論じたという「客人神(まろうどかみ)」。谷川さんによれば、それは「後来の神ではなくて、神社の建つ前の地主神もしくは土着神」のことを指すそうだ。

『白鳥伝説』の中で谷川さんは、客人神の例として、越前国一の宮「氣比神宮」の摂社「角鹿神社」(祭神はツヌガアラシト)や、武蔵国一の宮「氷川神社」の摂社「門客人神社」(祭神はアラハバキ)を挙げられている。

氷川神社の「門客人神社」
(氷川神社の「門客人神社」2019年秋参詣)

ということで、まとめてみると、古代に高良山の界隈を治めていた水沼(水間)氏は、高良大社で祖先である景行天皇を祀っていた・・・。

その高良大社の本殿には、かつては同格だった「トヨヒメ大神」が「御客座」で、主祭神と同じ祭祀を受けていた・・・。

高名な民俗学の先生方は、「客人神」は後から来た神ではなく、もともとの地主神、土着神だと論じていた・・・。

氣比神宮の「角鹿神社」
(氣比神宮の「角鹿神社」2021年夏参詣)

邪馬台国の滅亡

でまぁ、ご察しの通りで、ぼくは高良大社の「トヨヒメ」とは、邪馬台国の二代目女王「台与(とよ)」のことだとおもっている(※台与は壱与ともいう)

祀ったのは安曇、宗像、物部、水沼といった北部九州の豪族たちで、ヤマトの手前、おおっぴらに主祭神として祀るのは憚られたので、メインは景行天皇を祀る装いで、実はトヨを客人神として祀ったんじゃなかろうかと。

「神」になる前のトヨのお墓は、高良大社にほど近い「祇園山古墳」が候補になるかと思う。4世紀初頭に築造された方墳で、北部九州で主流だった「箱式石棺」を採用しながら、ヤマトのシンボル「三角縁神獣鏡」も副葬していたようだ。

「祇園山古墳」2022年春見学
(「祇園山古墳」2022年春見学)

で、ここから先はただの想像に過ぎないんだが、トヨは安曇氏ら北部九州の豪族に見限られて、「神」になったんじゃないかと思っている。先代の卑弥呼が朝貢していた「魏」が滅んだからといって、すぐさま「西晋」に乗り換えているあたり、いかにも頼りない印象がある。

以下は私見。

そもそも卑弥呼とは、「倭国大乱」の前までは「倭国」の盟主だった「伊都国王」の、傍系の血筋だったんじゃないかと思っている。

地元の考古学者によれば、北部九州で二強だった伊都国と奴国の王墓には共通性があって、両者は血縁関係にあったと考えられるのだという。

この「王制」に、筑紫平野の独立勢力が連合して、反旗を翻したのが「倭国大乱」で、その結果か、伊都国と奴国の王墓は、「倭国王・帥升」の墓とされる、AD1世紀初頭の「井原鑓溝遺跡」のあとは100年ほど途絶えている。

祇園山古墳案内板
(祇園山古墳)

そうして北部九州から「王家」は廃されたものの、やはり祭政の中心は必要だろと共立されたのが、伊都国王の傍流の血筋にあたる霊感少女で、なかば人質のように筑紫平野南部に連れて行かれると、連合国の厳重な監視のもと、宗教的な象徴として「女王」と持ち上げられ、「鬼道」なる呪術に励んでいた———ってあたりが、ぼくが卑弥呼に持っているイメージ。

「傍流」というのは、ぼくが卑弥呼のお墓だと思う糸島市の「平原王墓」が、伊都国の主流の墓域から離れた場所に造営されているから。町外れにひっそりと造営された、小さな古墳群のなかの一基らしい。

ところで3世紀後半の北部九州では、大集落から人口が流出する事態が起こってたそうだ。あの有名な「吉野ヶ里遺跡」でも、古墳時代に入ると集落はほぼ消滅してしまったという。

一方、同じ期間に規模が拡大したのが「纒向遺跡」で、3世紀前半には100haほどのサイズだったものが、景行天皇の3世紀末には300haと3倍化したそうだ(坂靖)

ぼくはこうした列島規模での人間の移動の背景には、求心力を失った女王トヨが治める邪馬台国の、はげしい衰退があったんじゃないかと思っている。終わりを見せない中国大陸の戦乱が、飛び火してくるのを恐れた九州人たちは、安全な列島の奥地で繁栄する奈良盆地に、新天地を見出したんじゃないかなーと。

「まぼろしの邪馬台国」より
(「まぼろしの邪馬台国」2008年)

だが、身軽には動けない豪族たちもいる。彼らはやむなくトヨを押し込めるか、あるいは殺害するかして、ヤマトの方から九州に来てもらうしかなかったのだろう。

そうして邪馬台国を盟主とした北部九州の連合は瓦解して、あとは景行天皇の親征を待つばかりであった———みたいな。


本業が忙しくなってきたので、7月末まで休みます。

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